五分後の世界 / 村上龍

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読んでいる途中で思った感想を読後ちょっとまとめたもの。

以前の装丁の方が好きだった。

あらすじ

ランニングをしていたはずの小田桐は気付けば霧の中を行進していた。そこは元々いた世界から5分時間がズレた別の世界で、その世界の日本人はアンダーグラウンドと呼ばれる地下に住み、武装しゲリラとして国連軍と戦っていた。日本の国土は終戦アメリカ、イギリス、ロシア、中国により分割統治され、虐殺などによって日本人の人口は26万人にまで減少していた。小田桐は幾度かの戦闘に巻き込まれながらもその日本で生きる人間を観察しながら自身も生き延びる。この小説は、小田桐を通じてアメリカ的文化と価値観の受容を強要されることなく強い日本であり続けようとした日本を書いた小説である。

感想

私がこの本を最初に読んだのは中学二年生の時で、続編のヒュウガ・ウイルスを含めて3周程度読んだように記憶している。それから10年経ち、ふと読みたくなったので再度購入して読んだ。

いわゆる歴史ifもので、2発の原爆を落とされても降伏せず本土決戦が行われて現実よりも酷い状態で終戦を迎えた日本が舞台。時間は恐らく書かれた年の1994年。太平洋戦争後、日本の国土は割譲されて各国の移民が住み始め、混血も進んだ。混血の結果、移民や難民の血が混ざった準国民と純血の日本人である国民の2つの階級が出来た。また、日本に認知されている混血は準国民として国民と差別されることなく扱われるが、調査に合格しない者は地上のスラムなどに住み酷い生活を送ることになる。日本人は文字通りアンダーグラウンドという地下に潜り日本人という種を残すために国連軍などに対してゲリラ活動を続けている。

散々負けて国家としての体を保つのが限界になっているため、一般的な国家同士の戦争という概念を適用できなくなってしまっている。恐らく歳入も少なく継戦能力もほとんど無いのにも関わらず戦っている。ほとんど負けのような状態なのに戦い続けているのは現実よりも精神論を重視しているようにも思える。つまり"日本教"という宗教を信じ、ジハードのように宗教国家が教義に従って戦っているように見える。

文中で日本人は洗練されて尖った印象で書かれており、自分らの人種が優れていることを無根拠に確信しているような描写のされ方をしている。これは恐らく厳重な情報統制の結果そう思い込まされている可能性が高く、 実際、文中で出てきた小学6年生向けの社会の教科書が「欧米と戦うためのプロパガンダ」の役割を兼ねているような文章で、欧米的思考を当たり前のように悪と思わせるよう誘導している。教科書の最後は煽情的で露骨に市民向けのプロパガンダのにおいがする。そしてアンダーグラウンドの電車内で中学生と話すシーンでも分かるように、学生は敵(国連軍)を理解するためという明確な理由の元で学んでいる。

人口も26万人しかいないため情報統制はさほど難しくないはずで、教育 + 疑わしきを罰するだけで十分機能すると思う。しかも94年はまだインターネット普及以前だから一般の人間が海外の"普通"を自由に知り得る機会もほとんどなく教えられた当たり前を何の疑問も持たずに信じていたはず。まさに社会主義国日本という様相で、無駄を削ぎ落として現実的に正しいことが正しいと認識されるような社会として機能している。なおこの正しさの犠牲は倫理と感情。人口も少なく軍事力くらいしかマトモに輸出できないような小国なので一つの正論でうまく社会が回っていて、文中では「残酷だが単純で、曖昧なものがまったくない世界」と書かれている。この正しさに沿うように敬語を無くすなど言語も変化した。これは村上龍の凄いところだと思っていて、言語はそれを話す人間達が作り上げ変化するものだから、日本人の正確がより単純になっていくのであれば言語も単純になっていくのは自然のように思う。これに気付いて小説を書けるのは本当に凄い。

とにかく国際社会に対して日本の存在感をアピールしたがっている様子が伝わってきていて、それがピアノやらバレエやらの文化的な面でも出ている。恐らく世界的に有名な音楽家というキャラクターを出すことで、日本人は感性などの精神性が欧米より優れていることを表しているのだと思う。しかし欧米側からの意見はほとんど書かれておらず、ワカマツのマネージャーが怒りながら言っていた「お前の音楽を聞いているのは第三世界の飢えたガキ共と、下層階級のクズだけだ」くらいしかない。恐らく現実はこっちで、実際には国際的な評価はさほど高くないのではないかと思う。

同じ村上龍が書いた「半島を出よ」の北朝鮮もそうだったけど、やたらと少数先鋭で戦ってる人たちが出てくる。少数先鋭に幻想を抱きすぎている感。戦いは数だよ兄貴!